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忠勝の子孫は

忠勝の子孫は、その後転封を繰り返して、姫路藩などを経由し、三河岡崎藩5万石に落ち着いた。しかし忠勝の死後、その息子である本多忠政・本多忠朝を除いて、本多氏は幕府から重用されることは、ほとんど無かったと言われている。但しこれは、歴代の本多家藩主が夭折・不行跡を繰り返したためとも考えられる。

忠勝の叔父は徳川家中では武勇もって有名な植村氏明であり、また同じく叔父に槍の名手の本多忠真を持つ。

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織田信照(中根平右衛門忠実)、織田信長の庶弟。
家康の関東移封後、1591年頃から上総国大多喜10万石城主・大名となった本多忠勝に、付け家老として配される。子孫らは本多家の家老として職責を全うしている。

都築惣左衛門秀綱
本多家の筆頭家老として代々続く筑紫氏の初代にあたる。 本来今川家の家臣であったが、1568年末から開始される徳川家康の遠州侵攻で臣従。翌1569年には本領安堵を約す書状が家康から与えられている。忠勝の与力に加えられると、各地で勇戦した。

梶金平勝忠
都築氏と共に家老として代々、本多家を支えてきた梶氏。 その祖は松平家一族である能見松平光親の次男・親友とされ、勝忠はその親友の曾孫にあたる。 元々家康の使い番として仕えていたが、1566年、忠勝が旗本先手役に任命されると同時に与力として本多隊に組み込まれる。 以降、忠勝隊の中心として多くの合戦に従軍。 1600年の関ケ原合戦に於いては、敵兵の放った矢によって愛馬・三国黒を失いながらも徒立ちで奮戦する忠勝に自分の馬を差し出し、忠勝の窮地を救ったという逸話が今に残っている。 また、関ケ原合戦後の1601年、忠勝の桑名移封の際には先発隊として桑名城に入城している。

河合又五郎政光
旗本先手役に抜擢された忠勝の与力50騎の1人。忠勝が大名になるとそのまま家老として支えている。知行5000石(内、与力給2500石を含む)を公儀だけから拝領。実弟・政一が又五郎の通称と家督を継いでいる。

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2009年05月02日 07:09に投稿されたエントリーのページです。

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